(追記に日記ログ)
「――待て!」
ベルクレア騎士団第15隊を退けて、移動しようとしたときだった。
まだ戦いの気配の残る空間に、突然レンの声が大きく響いた。
なんだかんだと思わせぶりな事を言っていた男――ギルとやら――も、弓使いの女シズクも、兵達も、驚いて振り返っている。
私たちも驚いた。
それほど、レンの行動は唐突で、その声には無視できない響きがあったのだ。
どこか能面じみた、色のない表情をした彼の視線は、ギルに注がれていた。
「んだよ、まだ何かあんのかぁ?」
「お前、」
面倒臭そうなギルの言葉を、重々しい声が遮る。
低い声だった。低くて重くて、奥底から這い上がってくるような声だった。
彼のこんな声は聞いた事がなかった。
「宝玉を使えば過去を操れる、と言ったな」
レンは無表情のまま淡々と言葉を続ける。
その声が危うい均衡のようなものを孕んでいることにギルは気付いていないのか、面倒臭そうな態度のまま、軽く頷く。
「ああ」
「どういう意味だ」
「どういう意味、ねぇ」
畳み掛けるように問うたレンに、ギルがにやにやと嫌らしく笑いながら肩を竦めて見せる。
知っていてはぐらかそうとしているのか、それとも何も知らないくせにはぐらかすふりをしてこちらの反応を楽しんでいるのか。
どちらにしろたちの悪いにやつきに、私は鼻白み、微かに眉根を寄せる。
ロージャからも困惑したような気配が伝わってくる。カディムに至っては状況を可能な限り俯瞰する為かほぼ気配を消している。
レンは表情ひとつ変えず詰問を続けていたが、そこで一歩、前に出た。
ロージャを持ったまま、大股でギルに歩み寄って行く。
ようやく彼の表情に変化が現れた。
それは、ひどく複雑な表情だった。
怒りのような。不安のような。
苛立ちのような。恐慌のような。
疑惑のような。――願いのような。
色んなものが混じって、自分でも訳が分からなくなった、迷子のような。
そんな、顔だった。
堪えきれずカディムが息を飲む気配がした。
私だって驚いている。
レンは表情が豊かなようでいて、なかなか自分を見せてはくれない。
嘘をついているとか本心を見せないとか、そういうのとも違う。
彼は最後の最後のところで、いつも自分を押しとどめて覆い隠す。
それなりに長く付き合い、時折見せてくれるようになった『それ』が、今、無防備なほど剥き出しになっている。そんな風に思えた。
そして今のそれは、たがが外れたように激しい。
その激しさに、正体は分からずとも危機感を持ったのだろう。第15隊の様子が変わった。
シズクは弓を握り直し、兵達は身構え、ギルの顔からにやけた笑みが消えた。
レンは真っ直ぐギルに向かって行く。
「答えろ、どういう意味だ」
「だーかーら、どうもこうもねぇって」
「答えろ!」
泥で汚れた白い手袋が、男の襟元に伸びた。
レンの左手が、そのままギルの胸ぐらを掴む。
ぎり、と力が入っているのは、少し離れた私の位置からも分かった。
『やめろレンジィ、とっくに決着はついてる!』
島の理上の戦闘が終わっている状態でなお食って掛かるレンを、ロージャが諌めようと声を荒らげる。
声には困惑と焦りが滲んでいた。
「ほぉら、てめぇの相棒も言ってるぜぇ」
「うるさい!」
叫びと同時に、レンの目が色を変えた。
青銀色から、生来の鮮やかな橙黄色へ。
そして一気に周囲の気温が下がった。
ロージャの表面は白銀に凍り付き、レンの全身から吹き出した冷気は、白い滝となって緩く渦を巻きながら足下へ流れ落ちる。
ギルを掴んだ左手の周囲は特に白が濃い。
空気中の水分が瞬く間に凍っているのが見える程だ。
目にかけている魔法も解き――もしかしたら、忘れているのかもしれない――、残る全ての魔力を結集させているかのような様相に、私も焦りを覚えた。
我々はすでに今日の戦闘を終えている。互いに、残っている力は少ない。体力も魔力も、もうほとんどない。それなのに……、
「……!」
シズクが真顔で弓を構えた。レンに狙いを定めている。
あちらもレンの様子が尋常でない事に気付いたのだ。
技は使えないだろうが、それでも射かけられれば怪我をする。ヒトであるレンは当たりどころが悪ければ死ぬ事だってある。
今は威嚇だろうが、これ以上レンがギルに何かすれば、シズクは間違いなく矢を放つ。ロージャの叫びがいっそう高くなった。
『馬鹿っ、やめろって言ってるだろう!』
「……おいおい勘弁してくれよ。俺もてめぇも、もうろくに戦えやしねぇだろ」
うんざりした調子でギルが顔をしかめる。面倒臭さ半分、警戒半分。
おそらく島の理上、己の存在はそれほど危うくはならないという自信があるのか、掴み掛かられているわりに切羽詰まった様子がない。
掴み掛かっているレンの方が、よほど張りつめている。
「黙れ。お前の無駄口なんか要らん。質問に答えろ。でないと――」
「随分必死だなぁ、え?」
ギルが、歯を剥くようにしてにたりと笑った。
必死さを嘲笑うかのように。
「そんなに変えてぇ過去でもあるってのかい、魔法使いさんよぉ?」
「こ、の……ッ!」
ギルが言い放った言葉で、レンの全身に衝撃が走った。
筋肉には限界を超える力が籠り、魔力と気は、恐ろしい勢いで膨れ上がり、集束する。
ロージャを握りしめる拳から音さえ聞こえる。気の奔流が齎す幻聴だ。
シズクの弓がきりりと引き絞られた。鏃は過たずレンを狙っている。
『おい、レンジィ!』
悲鳴のようなロージャの声の中、私は地を蹴った。
下僕を呼びながら、一飛びにレンの側に降り立つ。
呼び声に応え、黒い霧のようなものが私と同じくレンの傍らにある。
霧は一瞬で長身の男の形に戻り、黒い手袋をはめた手で、レンの左腕をそっと掴んだ。
それを確認しつつ、私も手を伸ばし、レンの右手を押さえた。
発せられる冷気でとてもひんやりとしたその手を。
凍えた空気の中、私の飾り達が揺れて、しゃらしゃらと涼しげな音を立てた。
この緊迫した場にはいささか不釣り合いだが、それくらいで丁度良い。
「――ッ!?」
突然の介入にレンが息を詰めた。
そして私とカディムを交互に見て、ぐっと唇を噛む。
凍るほど冷たかった周囲の温度が一瞬で緩む。
凍り付いていたロージャの霜が解け始める。白い冷気も消えた。
ああ、レン。君は本当に優しいね。
どれだけ我を忘れていても、自分以外を傷つけまいとする。
レンの腕から力が抜けて行くのを感じながら、私は驚嘆していた。
「恐れながら申し上げます、レンジィ様」
カディムが意を決したように口を開いた。
私より先でも今は許す。
カディムのレンを心配する気持が本当だからだ。
絨毯は、この優しくて素敵な魔法使いと可愛くて綺麗な杖には、執心している。珍しい事に、契約主でないものなのに心を砕く。
私はそれに、少しだけ嫉妬を感じるけれど、でも、少し誇らしくて、少し心地良い。だから許す。
「これ以上はお身体に障ります故、どうかお気を鎮めて下さいませ」
静かで低い、けれどいつもよりほんの僅か、緊張を湛えた声に、レンの気が揺れる。迷っている。
ぎり、と歯を食いしばる気配がした。
ギルの襟首を掴んだ手は離れない。
「……だけど、こいつは」
「レン」
呼びかけると、びく、とレンの肩が揺れ、ゆっくりと私を振り返った。
橙黄色の瞳。どこかばつが悪そうな彼の視線がこちらに向くのを待ってから、その瞳を見つめた。綺麗な色だ。
「やめよう、レン。これ以上は無意味だ」
「…………」
「彼らだって『過去を操れる』という事以上は知らないかもしれない。もし知っていたとしても喋らないだろう。それに君はとてもとても疲れている。これ以上無理に術を使うのは身体に良くない」
そう。こいつらは何も知らない。知っていても、話さない。――いや、話せないのだ。
島の理は強く、全てを縛っている。
無情な理にかなわぬ爪を立てるよりも、君の体の方がよほど大事だ。
もしも、このギルという男を裂いて君の役に立つなら、私が引き裂いてやって良い。
四つに裂いて答えが出るなら、四つに。
八つに裂いて答えが出るなら、八つに。
けれど多分、幾つに裂いても答えは出ない。
それどころか、腹立たしい事に、私はおそらく、これを引き裂く事もできない。
島の理の上で戦うしかないのだ。
そうやって、島の理は全てを縛りながら、……時折、妙な自由をちらりと見せびらかす。
『過去を操れる』だと?
何という如何様だ。
何という禁じ手だ。
それを欲しいと願うものが、どれほど居るか。
血を吐くほどに願ったものが、どれだけ居たか。
レンはしばらく黙ったままだった。
そして、ギルの襟を離した。
だらんと落ちた左手と、ロージャを緩く握ったままの右手。
俯いたレンの表情はよく見えない。
「……悪かった。もう、良い」
小さな小さな声で、レンが言った。
ギルはふんと鼻を鳴らすと、掴まれていた襟を整え、私たちに背を向けた。
そんなギルは不思議とどこかきまり悪げに見えた。
こいつも――そう、私たち以上に――島の理に捕われているのだ。
それは一体どんな気分なのだろう。
隊の他の面々も一様に肩の力を抜き、ともに去って行く。
「――ま、せいぜい頑張るこったな」
一度だけギルが振り返る。
そして、それが最後だった。
ベルクレア騎士団第15隊は去った。
妙な『情報』を残して。
「………………」
『……落ち着いた?』
結果的に第15隊を見送る形になった後。
様子を窺うような、気遣うような、微妙なロージャの声に、レンは目を閉じたまま、黙って頷く。
堅く閉じた目を左手の平で覆って、すぐに離す。
それだけで、次に開かれたとき、彼の両の目はいつもの青銀色に戻っていた。
しかし、何一つ、いつもの彼ではなかった。
指先が、手が、腕が、肩が、足が、背が。
小刻みに震えている。
「……悪い、みっともねーとこ、見せちまった」
私は緩く首を振る。
みっともないだなんて思っていない。
ただ……。ただ、とても心配だった。
震える左手が、脇腹の、あの古傷を掴んでいる事に、レンは気付いているのだろうか。
それからしばらく、私たちはただ立ち尽くしていた。
誰も、何も言わなかった。
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