この回の日記は文字数過多で随分弾かれてしまってね。
削った箇所を足した補完分を、追記に仕舞っておく。
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「水鏡……って、ええ!? あれって俺にも使えるのか!?」
驚きも尤もだ。
水鏡はたいそう特殊なもので、《翼ある災い》が手ずから織り上げた術で出来ている。(余談だが彼は水鏡を使わずとも界を渡れるので、何故あんなものを作ったのかは謎だ)
その為とても便利だがとても変わっている。そして、使うにはとても魔力を必要とする。
レンはそれを察しているから余計に驚いたのだろう。
「完全に使いこなすのは、多分無理だ。私も使えない。でも水鏡は違う『界』への道を開く。まあ、《翼ある災い》が関わらない限り実体を持って越えられない道だから、もっぱら連絡の用にしか使えないのだけれど……」
そう。『けれど』。
「けれど、見る事はできる」
水鏡が持つ一番基本的な能力。
それは、違う世界同士を繋ぎ映し出す力。
「君の世界の在処は、君の体と魂がきっと知っている。その世界まで、見る事のできる通路が安定して開くなら、君の『眼』で、目指す相手を探し、視るのは……、可能なのではないかな?」
レンが真剣な顔で思案を始める。
いつの間にか側に来ていたロージャが(彼を連れてきたのはカディムだが)鉱石を光らせ、聞いてきた。
『水鏡が覗き窓になって、そこから相手を探して、窓越しに話しかけるような感じ?』
「そうそう! そんな感じにならないかなあ」
「……なるほど。……そっちを補助してもらえるなら、俺は眼の方に集中できる訳か。……これは、行けそう、か?」
私は頷いた。
視る事に集中出来れば、レンはきっと成功する。
……と、そこで彼は急に声を潜めた。
「……で、でもさハイダラ、その水鏡って、大事なもんじゃあねーのか? 俺が貸してもらっちまっても大丈夫なのか?」
「《翼ある災い》は、人に優しい。だからきっと水鏡をくれるよ」
昔はその名の表す通り災いの中の災い、災いそのものだったそうだが(といっても私はその様子は知らない)、私が知る限り人には寛大だし、私の頼みも大抵断らない。
大丈夫だと請け合うと、レンはほっとしたようだ。僅かずつ見通しが立ち始めた事で、互いに安堵の笑みを交わす。その時、
『カディムはどう思うの? なんだか、いつにも増して静かだけれど、気になる事があったら教えてよ』
と、ロージャが不思議そうに言ったので、私達は一斉に絨毯を見た。
今までカディムも側にいたが、ロージャを支えつつ無言だった。それこそ、いつにも増して。
実はそれには理由がある。私は込み上げた笑いを噛み殺し、ちらりとしもべを見やる。
「ふふふ、カディムはねえ、苦手なのさ。《翼ある災い》が」
「……とんでもない事でございます。……苦手という訳ではございません。決して。……なんと申し上げれば良いか、つまり、畏敬の念を深く抱いている、と申しますか……」
即座に否定するが、カディムの視線は狼狽えている。
静かな佇まいのままなのにそわそわ狼狽える器用な素振りがおかしくて、私達は少し笑った。
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「貴方の水鏡を寄越せ」
久しぶりの対面。
挨拶もそこそこに言い放たれた台詞は、到底礼儀にかなうものではなかった。
水鏡の向こうの長身が訝しげに首を傾げる。
『……なんだと?』
「寝過ぎて耳が遠くなったのか? 水鏡を寄越せと言った」
間髪入れず返ってくる、変わらぬ不遜な言い草。
長身の影は、水底から響いてくるようなその声音に呆れた気配を滲ませた。
『……今、寄越しているだろう?』
そう。今、ハイダラの目の前には姿見程もある大きな鏡が出現していた。
滑らかな鏡面は時々細波を立て、それが水である事を示す。
「違う。こちらに寄越せ。使いたいの」
首を振って、ハイダラが手を出した。
まるで菓子を強請る子供のようだ。
『……使ってどうする。お前の力では、それほどの役には立つまい』
対する影も、頑是無い子供を相手にするような口調で問い返す。
どうやらこんな物言いには慣れているらしい。
「私が使うのではないよ。優しくて素敵な水の魔法使いが使う。遠くの世界を見るために」
ゆらりと影が揺れ、止まる。
何かを考えるように、会話に数秒の間が空く。
『……人か?』
「そう、人」
『……、いくら、水とはいえ……、人の手には、余るだろうが……』
途端、ハイダラの琥珀の目がきっと吊り上がった。
敢然とした仕草で腕を組み、首を横に振る。
「危ないのは駄目だ。害になるのも駄目。貴方の力でどうにかして」
『……、……。我が儘な事だ……。……少し、待て』
黒銀の長い影——髪なのだろうか——を引いて、ハイダラの相手をしていた長身が鏡から消えた。
しばしの後、戻ってきた影は、ゆっくりと手を伸ばした。ハイダラに向かって。
とぷん、と微かな音がして、青白い手が、鏡から生えた。
小さな瓶を持った手は、ハイダラよりも大きく、指が長く、爪が長く、そしてハイダラよりも痩せていた。
青白い手から嬉々として小瓶を受け取ったハイダラが、薄蒼く透き通ったそれをつくづくと見詰める。
水晶の結晶を模したような、それでいて香水瓶のような。
瓶の中では液体が揺れていた。
「これ、なに? 綺麗な瓶……、中身は水? いや、……魔力?」
『……水鏡の欠片を集めた蜜だ。一口で、一度、……遠見の力を貸すだろう』
光に翳して透かす。
液体の量はそれほど多くない。
「どう見ても、一口か二口分しかないよ?」
『……贅沢を言うな』
「けちー。ねえ、これ美味しい?」
文句の次は蜜の味に興味を示した移り気に、影が揺れる。
緩い動きは、どうやら向こうで肩を竦めた為らしい。
『……どこでそんな言葉を覚えるのやら……。……味までは、保証せんぞ。……まあ、楽しそうで何よりだ……』
瓶を矯めつ眇めつ弄っていたハイダラは顔を上げ、笑う。
楽しいと表情で語る白灰色の男に、影も少し目を細めたように見えた。笑みの形に。
「ありがとう。サーラによろしく。貴方ももう少し起きていて、楽しい事を探すと良い」
こちらに来る? と誘いかねない口調のハイダラに、影が微かに喉を鳴らした。
『……今の私は、夢の中にこそ、捜すものがある……』
ふと琥珀の瞳が揺れる。
影の中に寂しさを見たような気がした。
「……それもそうか。お休み、《翼ある災い》。沢山捜すと良い」
『……、……』
「何?」
『……臭う。奇妙な、青白い力が……』
「……鼻が良い事」
『……お前は、弱い。注意を、忘れぬようにな……』
「ああ、分かっている。……大丈夫」
『……ならば、良い』
「……お休み、……ありがとう」
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「これが水鏡なのか?」
小瓶を手にしたレンはそう言った。少し不思議そうだ。
私もそれを渡された時は何だか分からなかったから気持は察する。
「正確には水鏡の欠片を集めた蜜だそうだ。一口で一度だけ遠見の力を貸すのだって」
「……一度だけ、か。なるほどな」
得心した様子でレンが頷く。
そして彼は、私に向かってあらためて礼を告げた。
「……ありがとうな、ハイダラ。俺は一体、あんたにどれだけ助けてもらってるのか……感謝してもし足りない。《翼ある災い》さんにも、本当に感謝していたって伝えてほしい」
真摯な言葉が嬉しかった。
でも、大した事はしてないから、少し勿体ない。
だって私の方こそいつも彼に助けてもらっているのに。
そして、人ではないものに理解を示してくれる事も嬉しかった。
この世界では《翼ある災い》の名は発音出来ない。文字にする事も出来ない。
名が強すぎて理と干渉するから、彼自身が名を呼ぶ事を禁じてしまった。
けれどいつか、レンには、通り名ではない彼の名を教えたいと思った。
「いいさ、それで君の負担が少しでも軽くなるのなら、ね。……それにしても、本当にちょっとしかくれなかったのだけど、大丈夫?」
たった一口しかなかった、と液体の量と思い出す。
あんな少しで大丈夫だろうか。もっとなみなみとくれれば良いのに。
全くけちなんだから……、と呟くと、レンはにやりと笑って言った。
「一発勝負、って事だな。大丈夫さ、少ない機会を活かすのも魔法使いの仕事のうち!」
魔法使いに必要なのは自信だけでない、自覚と覚悟なのだと、言葉にせずとも分かる笑みだった。
「少し準備が要る。暗くて静かな方が集中できるから、実行は今夜だな。……それでさ、ハイダラ」
「どうしたの?」
「もしも術が成功したら俺は確実にぶっ倒れると思う」
「……!」
どこか安心していた私は背筋に冷水を浴びせられた気がした。倒れるとは穏やかでない。
しかし驚いた私の様子に、いやいや、と慌てたレンが詳しく説明をし始める。
「ってのもこの術は相手の意識と俺の意識を一時的に別の空間に隔離して交信する術だからだ。だからどうしても身体は意識不明って事になっちまう。危険がある訳じゃないから、心配しなくて大丈夫だ」
成る程。術の特性上、仕方のない事のようだ。
だとすると、こればかりは、どうにもならない。
「分かった。君がそう言うのなら危険はないのだろう。けれど、本当に無理はしないでくれ」
「……ん、無理はしない。ありがとうな」
そして夜。
夕焼けに染まりながら長い時間をかけて陣を整えたレンが振り返った。
地面にあるのは、彼が得意とする、象徴とその図案を組み合わせた複雑な陣だ。
彼の手の甲にも、世界の象徴が赤く描かれている。
「それじゃあ、今から始める。ハイダラ、カディム、ロージャを頼む」
「分かった。気をつけてね」
「承知致しました」
『……無茶、するなよ』
ロージャの声音は数拍遅れ、固い。心配しているのだろう。
レンはそれに微かな苦笑を返してから、躊躇いなく小瓶をあおった。
蜜を飲むと直ぐに、彼の周りに水の気が立ちこめる。
……と、見事、霧を伴う水の龍が現れた。
——成功だ。水鏡の蜜は彼に従っている。
陣の中央に立つレンの前に龍が渦を巻いて鏡を作り上げる。
滑らかな鏡面が生じた次の瞬間、レンの体から一気に術の波動が放たれた。
「……!!」
私もカディムも、そして多分ロージャも、その波動に息を飲んだ。
レンの目には、すでに『澪標』で視る光景が広がっている様だ。
「——『至れ/彼方へ/至れ/偽りの島より/精霊の統べる土地へ』」
「『私は漣/大海の微震/淀まぬ表層/遥か対岸を目指すもの』」
立て続けに続く呪文。
詠唱が完了する度に波のようなうねりが生まれる。
目には見えず、音も聞こえず、触れる事も出来ない、しかし手応えのあるそれ。
術の発動は順調な様だった。しかし、
「『それは金剛石/光の山/燃え盛るもの/何人にも征服されざるもの』」
この呪文を詠唱し終えた瞬間、レンの気が大きく揺らいだ。
それは一瞬で、直ぐに全ては淀みなく整えられたが、……多分あれは、警告だ。
レンは加齢によって一時的に得ている「増えるであろう十年分の魔力」を使い始めている。
奇妙に喉が渇く。
早く、早くと気が焦る。
「『漣より/金剛石に告ぐ』!」
その呪文は叫びのようだった。
そして、彼はやり遂げたのだ。
「『来れ/狭間へ/来れ/間隙へ/来れ』!」
「——『此方へ』!」
嵐のような呪文の奔流が、断ち切ったように途切れる。
レンが倒れ込むのと、私が地を蹴るのは同時だった。
陣を乱さぬよう、爪先をおろす場所を瞬時に選び、飛び込む。
危ういところで彼の頭を庇う事が出来た。
内心冷汗を拭いつつ座り込むと、ロージャを振り返り、安心させるように頷く。
「……大丈夫。レンの言っていた通り、意識が無いだけ。……成功だ」
無言で忙しなく光るロージャの側にはカディムが控えている。
だから私はそのままレンの側にいる事にした。
地面に寝かせ放っておくのは憚られたのだ。
そうして、私達は、彼の帰りを待った。
酷く長い夜だった。
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消えてしまった手紙と日々の覚え書き
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